ほおばる日々

0歳育児中

11月23日(時差投稿)子どもを生むという選択のこと

結局書けていなかったこと。

私が子どもを生むと決めた、決断した理由というのは一つではないけど、そして産んでしまった今としてはきっと、決めた当時とぴったり同じ感覚で気持ちを書くことはできないけど、今書けるこうだったというのを残しておく。

書きたいと思ったからメモ。

 

 

産むということは、決めて妊娠したら、お腹の子がいなくならない限り、そして自分で中絶しない限りは、もう勝手にお腹がどんどん大きくなっていずれは産まれることが確定される。

妊娠できるかどうかという結果は別として、希望する妊娠というのは、避妊をやめるなり不妊治療をするなり、という自分の決定によって決まる。女性側に決定権がある。(もちろん、相手の男性の決定にも左右されるが、あくまで身体とか人生の上での権利として)

しかし、妊娠してしまってからは極めて自動的というか、もう現象としては不可逆で、決めて妊娠したからにはそれ以上の選択のタイミングというのはあまりない。ただ待って、時が来たら産む。

 

しかし、ここからが、目からウロコだったんだけど、逆に産まないということは、「産まないことを選び続ける」ことなんだよね。子どもを産まない、と決めて産むことになる要素を排除し続けるという決定を下し続ける。

そしてこれが、実はすごい負担になりうると思う。

この考え方ってすごい私の中では革命的というか、すばらしい言語化というかある種発明だなって思った。

 

そして逆方向ながら不妊治療はこれに近いと思っていて、絶対的に産めない要素がない限りは、「産む選択をし続ける」ことが不妊治療なんだよね。結果が出るかはわからないけど、いつまで続くかわからないけど、お金がいくらかかるか見えないけど、という漠然とした不安やストレスを抱えたままベットし続ける、みたいな。

産む選択産まない選択、どちらにも、身体的タイムリミットというのが、年齢が明確にはないけど共通していると思う。

 

私が産むと決めた理由の1つに、「産まないことを選び続ける」ことができなかった、ってのがある気がしてきた。

産まないことを選び続けることをした結果、後悔するのが怖くて折れたというか、

 

イムリミットを目前に、

 

女性の決定権ながら、

だって、子どもを育てるのってどうやったって一人じゃできないから。